横 浜
横浜は港町として有名で、東京の南西方向にあります。
鉄道では東海方面からは東海道新幹線の新横浜駅でJR横浜線に乗り換え、桜木町駅まで約15分です。
東北方面からは東京駅でJR東海道線に乗り換え、横浜駅まで約25分です。
車では東海方面からは東名高速の横浜町田ICを、東北方面からは都心を経由して首都高速横羽線や湾岸線を利用します。
2004年(H16)2月1日に横浜高速鉄道みなとみらい線が開通し、東急東横線と直通運転で元町・中華街から東京の渋谷が結ばれて便利になりました。
それでは、桜木町・みなとみらい地区から元町・山手地区にかけて順番に見ていきたいと思います。
左の写真はランドマークタワーです。建ってから10年以上が過ぎましたが、文字通り、横浜のランドマークとして、すっかり定着した感じがします。73階建で高さは296mあります。もちろん、日本一です。
右の写真は帆船日本丸です。実習船として1930年(S5)に建造されました。1984年(S59)の引退後、港町横浜に保存されることとなり現在に至っています。
近くにはコスモワールドがあり、その中には目玉とも言えるコスモクロック21という世界最大の時計型大観覧車があります。高さは112.5mで、1周するのに約15分かかります。
汽車道を進むと、先には赤レンガ倉庫があります。
左上の写真は1号倉庫で1913年(T2)、右上の写真は2号倉庫で1911年(M44)に完成しました。
1号倉庫が2号倉庫の半分の大きさしかないのは、1923年(T12)の関東大震災で半壊したためです。
倉庫として使われなくなった後は、かなり荒れ果てていましたが、化粧直しされ、現在はおしゃれなお店が入り、ショッピングが楽しめます。
近くの岸壁からは写真のように横浜港やベイブリッジを見ることができます。
その近くには旧横浜港駅プラットホームがあります。
現地にある看板には…
旧横浜港駅プラットホーム(旅客昇降場)
「「横浜港駅」は、明治44年(1911)、横浜税関構内の荷扱所としてつくられ、大正9年(1920)7月23日、「横浜港駅」となり、東京駅から初の汽船連絡列車が乗りいれました。列車はその後、「岸壁列車」などと呼ばれて親しまれました。
関東大震災の復興期、昭和3年(1928)当時の花形外航ターミナルにそって旧「横浜港駅」のプラットホームが設けられ、華やかな海外航路時代の最盛期をむかえました。
「赤れんがパーク」の休憩所として保存再利用にあたり、傷んでいた上層は新材料で復元しています。」
と書かれてあります。
道路にそって先に進むと、日本大通りに出ます。
名古屋には100m道路という幅広の道がありますが、横浜にもそのような道があり、元祖だったのです。
現地にある看板には…
日本大通り
「旧外国人居留地と日本人街を区別する街路で、慶応2年(1866)の大火災後に防火帯を兼ねて計画・整備された日本における近代街路の発祥地である。当初は12mの中央車道の左右に3mの歩道と9mの植樹帯が設けられていた。設計者ブラントンは、横浜公園や旧居留地下水道など横浜の都市基盤整備に主導的な役割をはたしたイギリス人技術者である。沿道には、神奈川県庁本庁舎、旧英国総領事館、旧横浜商工奨励館、旧横浜地方裁判所、三井物産横浜ビルといった歴史的建造物が集積し、横浜でも有数の歴史的景観を形成している。
所 在 地
:中区日本大通
構造・規模:復員36m
建設年代 :明治4年(1871)〜明治12年(1879)
設 計 :R.H.ブラントン
施 工 :不明 」
と書かれてあります。
さらに先に進むと、日本キリスト教会横浜海岸教会があります。
この教会は日本でいちばん最初のプロテスタント教会です。
1871年(M4)にサミュエル・R・ブラウン宣教師、ジェームズ・H・バラ宣教師によって現在地に小会堂が建てられました。
翌年の1872年(M5)に受洗者がおこされ、日本基督公会(別の名を横浜公会)が誕生します。
3年後の1875年(M8)に会堂が建てられ、横浜海岸教会に改称されました。
その時の会堂は1923年(T12)の関東大震災で倒壊、焼失したため、1933年(S8)に現在の建物が再建されました。
その際、とんがり屋根の中に以前の建物についていた鐘が取り付けられました。
なお、この建物は現役で使われており、毎週日曜日には礼拝がささげられています。
新しくできたみなとみらい線終点の元町・中華街駅のいちばん後ろの出口付近には横浜天主堂跡があります。
現地にある看板には…
横浜市地域史跡 横浜天主堂跡 (登録 平成13年11月1日)
「文久元年12月(1862年1月)、横浜居留地80番地(現山下町80番地)において開国後最初のカトリック教会の聖堂の献堂式が行われました。正式名称を「EGLESE
DU SACRE−COEUR」(聖心聖堂)といいますが、建物に「天主堂」と記した文字がありましたので天主堂とも呼ばれました。
パリ外国宣教会から日本管区長代理として指名され、フランス代理公使の通訳として来日したジラール(Girard)神父が、万延元年(1860)6月頃、横浜居留地80番地に聖堂建設用地の借地権を取得しました。まず司祭館の建設を進め12月に完成しました。11月に来浜したムニク(Mounicou)神父がここに住んで聖堂建設に従事し、翌年1月にはジラール神父も来浜し、聖堂は文久元年(1861)末に完成しました。
その後、明治39年(1906)、聖堂は、山手44番(現山手町44番地)に移転しました。震災後再建されたのが、現在のカトリック山手教会です。
昭和37年(1962)、天主堂創健100年を記念して碑が建てられました。
平成15年8月 横浜市教育委員会 」
と書かれてあります。
さらに先に進むと中華街があります。
写真は朱雀門(南門)です。何箇所かに写真のような門があります。
食事をするのもよし、また、ちょっとお茶ということで飲茶(点心)をするのもよろしいのではないでしょうか。
それでは、山下公園に行ってみましょう。
この公園は関東大震災で出た瓦礫を埋め立てて造られました。
左の写真はマリンタワーです。横浜港開港100周年記念事業の一環として1959年(S34)に建てられました。マリンタワーは世界でいちばん高い灯台で高さは106mあり、夜には入港する船の道しるべになっています。
右の写真は氷川丸です。こちらも横浜港開港100周年記念事業の一環とし1961年(S36)から現在地に係留され、内部が公開されています。1930年(S5)に建造され、シアトル航路に使用されました。戦時中は南方で病院船として使われましたが、戦後に再びシアトル航路に復活しました。
それでは、山下公園をのぞいてみましょう。
左の写真の♪あかいくつ は〜いてた
おんなのこ〜 で有名な女の子の像です。
このうたの中に出てくる「異人さん」とは宣教師のことで、横浜から船に乗って外国に行ってしまったということです。
右の写真は「かもめの水兵さん」の歌碑です。ちなみにかもめは神奈川県の鳥です。
碑には歌詞と
碑を建てることば
「作詞者武内俊子さんは昭和八年の秋ある日このメリケン波止場から船で布教のためハワイへ旅立たれる叔父さん見送りにこられました。 それはよく晴れた日の午後のことで桟橋一帯に白いかもめがたくさん飛びまわりそれが折からの夕陽に映えてとても美しく印象的でした。 この童謡はこのときの光景を描いたもので横浜港は「かもめの水兵さん」の発祥地であります。
昭和五十四年十一月 野間省一 」
と書かれてあります。
最後に山手地区に行ってみましょう。
写真は外国人墓地です。明治時代に活躍された宣教師や技師の墓が多数あり、写真のように十字架が建っています。ここからは遠くにマリンタワーなども見ることができます。
現地にある看板には…
外国人墓地
「もと増徳院の境内であったこの地は、安政元年(1854)2月、日米和親条約(神奈川条約)をむすぶため来日中のアメリカ使節ペリー一行のうち、客死した海兵隊員を葬ったのに由来し、横浜開港後、居留外国人の葬地となった。生麦・井土ヶ谷両事件の被害者を始めとし、明治初期、日本文化に貢献したワーグマン、モレル、ヘールツなどが眠っている。
(財)横浜観光コンベンション・ビューロー
横浜市 」
と書かれてあります。
写真は山手資料館です。1909年(M42)に建てられました。このあたりは写真のような洋館が多数、建てられているので、異国情緒を感じながら散策されるのもよろしいのではないでしょうか。